東京地方裁判所 昭和54年(ワ)4879号 判決 1984年9月06日
原告 甲野太郎
<ほか一名>
右原告ら訴訟代理人弁護士 御園賢治
同 大塚泰紀
被告 奥山繁
<ほか一名>
右被告ら訴訟代理人弁護士 原田策司
同 相澤建志
同 児玉康夫
右原田策司訴訟復代理人弁護士 井野直幸
同 遠藤晃
主文
一 原告らの請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告らは各自、原告甲野太郎に対し金八六八万〇四三三円及び内金七九八万〇四三三円に対する昭和五三年七月九日から支払いずみまで年五分の割合による金員、原告甲野花子に対し金八一八万〇四三三円及び内金七四八万〇四三三円に対する昭和五三年七月九日から支払いずみまで年五分の割合による金員を、それぞれ支払え。
2 訴訟費用は被告らの負担とする。
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
主文同旨。
第二当事者の主張
一 請求原因
1 (当事者)
(一) 原告らは、亡甲野春子(昭和四九年六月五日生まれ、同五三年七月九日死亡。以下「春子」という。)の両親であり、原告甲野太郎(以下「原告太郎」という)は内科医である。
(二) 被告奥山繁(以下「被告奥山」という。)は、東京都新宿区上落合三丁目七番四号で「ベビールーム」という名称でいわゆる無認可保育所(以下「本件ベビールーム」という。)を経営し、被告山住美代子(以下「被告山住」という。)、松岡美代子、藤木某及び高橋某を本件ベビールームの保母として雇用していた。
(三) 被告山住は、被告奥山に雇用され、本件ベビールームの主任保母として右ベビールームの保母である松岡美代子、藤木某及び高橋某を指導・監督すると共に自らも園児の保育に当たっていたものである。
2 (春子についての保育委託契約の締結)
(一) 原告らは、昭和五二年三月二二日、被告奥山に対し春子を本件ベビールームで保育することを委託した(以下「本件保育委託契約」という。)。
(二) 右契約は、原告らが毎週月曜日午前九時頃に春子を本件ベビールームに預けその週の土曜日の夜又は翌日曜日の午前八時過ぎころまでに引き取り、その間は本件ベビールームの保母らが春子について保育を行なうというものであった。
(三) 原告らは、被告奥山に対し、毎月月謝(昭和五三年七月当時一か月四万九八〇〇円)及び諸費用を支払っていた。
3 (春子が死亡するに至った状況)
(一) 原告太郎は、昭和五三年七月三日(月曜日)から預けていた春子を同月九日(日曜日)の朝本件ベビールームに引取りに行き被告山住から八時三〇分すぎにその引渡しを受けた。
(二) 原告太郎は、自動車の助手席に春子を座らせ、当時の自宅であった中野区《番地省略》所在の乙山リハイム五〇七号に向かった。そして、本件ベビールームから約五〇メートル走行して一時停止した際春子を見ると、春子は尿をもらしており、顔面は蒼白で体を揺っても反応はなく、身体も徐々に冷たくなってゆき、脈も感ぜられなかった。
(三) 原告太郎は、春子の異常に驚き、急いで自宅に帰り自らは春子に人工呼吸を施しながら原告甲野花子(以下「原告花子」という。)に救急車を呼ばせた。その間、春子の瞳孔は右側は完全に開き左側は半分以上開いていた。また、心臓音は聞こえなかった。
(四) 春子は、午前八時五〇分頃到着した救急車に乗せられ、酸素吸入を受けながら東京都中野区野方一丁目四〇番一号所在の中野病院に運ばれた。そして、同病院で蘇生の為の手当を受けたが反応なく、午前九時一三分頃、死亡の宣告を受けた。
4 (春子の死因と保母らの過失)
(一) 春子は、被告山住をはじめとする本件ベビールームの保母らの次のような過失により熱射病に罹患し、そして死亡したのである。
(1) 本件ベビールームの施設は、その面積、エアーコンディション、通風等について劣悪な環境にあり、そこで多数の幼児を集団的に二四時間保育しており、ことに昭和五三年七月三日(月曜日)から始まった週は猛暑が連続していたのであるから、園児に日射病、熱射病等の暑熱障害を招来し易い状況であり、園児の健康状態等によっては重篤な症状を示し死に至る危険性があった。そして、春子は、同年七月三日から始まる週の初め頃から汗疹が増悪しており、遅くとも七月六日(木曜日)頃からは、化膿性気管支肺炎等呼吸気道の炎症の為発熱、咳、喀痰、喘鳴倦怠感等の症状を示し、七月七日(金曜日)頃か遅くとも七月八日(土曜日)の午後には、右に加え熱射病の前駆症状としての倦怠感、疲労、欠伸、朦朧、運動困難、顔面発赤、発熱等の症状を示し、その後は、発汗が停止し、意識障害が起こり、特に末期には体温調整機能失調による急激な体温上昇等の重篤な症状を示していた。したがって、本件ベビールームの保母らは、七月六日ないし七月八日午後には、春子の何らかの異常に気付いていた。
(2) 右のような場合、右保母らは、春子の健康状態に何らかの異常を発見した時点で直ちに適切な応急手当をしたうえ、医師でもある原告太郎に連絡して指示を受け又は春子の引取りを求め、その連絡がとれない場合は近隣の医師の診療を受けさせるなどの適切な措置をなすべきであったのにこれを怠り、前記のとおり七月九日朝原告太郎が引取りに行くまで前記諸症状に対し何ら適切な処置をせずに放置した。
(二) 仮に、春子の死因が熱射病ではなく小腸・大腸炎を原因とする脱水症であったとしても、春子は、本件ベビールームの保母らの次のような過失により死亡したものである。すなわち、春子は七月六日(木曜日)から継続的に下痢症状を示しており、被告山住をはじめとする本件ベビールームの保母らは、この事実を知っていたから原告らに連絡をして指示を受けあるいは近隣の医師の診療を受けさせるなど適切な看護をなすべきであったのに、原告太郎が引き取るまで何ら適切な処置をせずに放置した。
5 (損害)
(一) 春子の逸失利益の相続 各二四八万〇四三三円
(1) 春子は、死亡当時四歳一か月の女子であり、本件事故にあわなければ高等学校を卒業し一八歳から四九年間就労可能であった。そこで、同人の右期間の逸失利益は、次のとおりである。
イ 収入額(年額) 昭和五二年賃金センサス第一巻第一表の産業計、企業規模計の全国性別・学歴別・年令階級別の平均給与額表による女子の年間平均給与額一五二万二九〇〇円に、年間五パーセントの賃金上昇分を一年分加えた一五九万九〇〇〇円。
ロ 生活費控除 五〇パーセント。
ハ 中間利息控除 ライプニッツ式計算方法(ライプニッツ係数九・一七六四)。
ニ 養育費控除 一八歳に達するまで年額二四万円とし、ライプニッツ式計算方法(ライプニッツ係数九・八九八六)により中間利息を控除する。
ホ 計算式
1,599,000×0.5×9.1764=7,336,531①
240,000×9.986=2,375,664 ②
①-② 4,960,867(円)
(2) 原告らは、右逸失利益の損害賠償請求権を法定相続分に従って各二分の一に相当する二四八万〇四三三円ずつ相続した。
(二) 葬式費用 原告太郎につき五〇万円
原告太郎は、春子の葬式費用として少なくとも五〇万円を支出した。
(三) 慰謝料 各五〇〇万円
原告ら各自に対して五〇〇万円が相当である。
(四) 弁護士費用 各七〇万円
原告らは、本訴の提起を原告ら代理人に委任した。そこで、その弁護士費用のうち、原告それぞれにつき七〇万円は本件春子の死亡事故と相当因果関係のある損害である。
(五) 合計
原告太郎分 八六八万〇四三三円
原告花子分 八一八万〇四三三円
6 (結論)
よって、原告らは、被告奥山に対しては債務不履行に基づき、被告山住に対しては不法行為に基づき、原告太郎について八六八万〇四三三円、原告花子について八一八万〇四三三円の各損害金及び原告太郎について内金七九八万〇四三三円、原告花子について内金七四八万〇四三三円に対する昭和五三年七月九日から各支払済みまで民法所定の年五分の割合による各遅延損害金の支払いを求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1の事実は認める。
2 請求原因2の事実は認める。
3 請求原因3の(一)の事実は認める。同(二)ないし(四)の事実のうち、春子が死亡したことは認め、その余は不知。
4 請求原因4(一)及び(二)の事実は、いずれも否認する。
5 請求原因5の事実について。(一)のうち、原告らの相続分が各二分の一であることは認め、その余は争う。(二)は不知。(三)ないし(五)は争う。
三 被告らの主張
1 (春子を原告太郎に引き渡すまでの状況)
春子は、死亡当時四才であったが、言葉はほとんどしゃべらず、話しかけられてもほとんど反応を示さず、他の子供達と遊ぶこともなく、独りでぼんやりしているのが常態という子供であった。体格は、二才児程度しかなく、排泄についても自己制御ができず、したがって最後までおしめも外せない状態であった。
被告らが最後に春子を預った時、すなわち昭和五三年七月三日から同月九日午前八時三〇分すぎ頃までの間も、春子には、右のような常態と比べて特に異常なところはなかった。ただ、七月七日に春子の湿疹が若干増えたので、被告山住が念のため医師である原告太郎の指示を受けるため電話したが、電話番号を間違って記録していたため連絡できなかった。しかし、この湿疹は、原告太郎からあらかじめ預っていた薬を塗ることによりおさまったので、改めて連絡をとる必要はなくなった。また死亡前の排便状態については、春子は便秘をしていたので、七月八日に浣腸をしたところ、同日一回排便があり、七月九日には午前五時頃と午前八時頃の二回排便があった。九日朝の便は、軟便ではあったが、下痢の状態ではなかった。
2 (本件ベビールームの状況)
(一) 本件ベビールームの建物は、別紙見取図のとおり木造モルタル塗セメント瓦葺二階建で、約一〇〇平方メートルの床面積を有し、一、二階ともほぼ同じ構造となっており、各々ダイニングキッチンの他四畳半三室、六畳一室という間取りである。このうち、一階については南側の二室(四畳半及び六畳)と北東の一室(四畳半)を、二階については南側の二室を、それぞれ保育室に充てている。これらの各室とも大きな窓が二か所ずつ設けられ、通風、採光とも良好である。また、昭和五三年七月当時は、一、二階の各々南東の六畳の室には、クーラー一台が設置されていた。
(二) そして、本件ベビールームの保母らは、特に夏場においては、窓の開閉、クーラーの操作等により室内を適温、適湿に保つとともに、託児の着衣を頻繁に取り替えるなどその健康状態の保持に留意している。
四 被告らの主張に対する認否
1 被告らの主張1の事実中、春子は言葉が若干遅れていたこと、被告山住が春子に薬を塗り、浣腸をしたことは認め、その余は否認する。
2 同2の事実について、(一)のうち、本件ベビールームが通風、採光とも良好であるとの点は一階につき否認し、クーラーが昭和五三年七月当時設置されていたとの点は不知、その余は認める。(二)は否認する。
第三証拠《省略》
理由
一 原告らは、昭和五二年三月二二日以来娘春子(昭和四九年六月五日生まれ)を被告奥山経営の本件ベビールームに毎週月曜日の朝から土曜日の夜又は日曜日の朝までの契約で預けていたこと、昭和五三年七月九日(日曜日)原告太郎がその週の月曜日から預けていた春子を本件ベビールームに迎えに行き、午前八時三〇分すぎ頃主任保母である被告山住から春子の引渡しを受けたことは当事者間に争いがない。
二 《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。
原告太郎は、春子を受け取ると自家用車の助手席に春子を座らせ、当時の自宅であった中野区《番地省略》乙山リハイム五〇七号に向った。本件ベビールームから約五〇メートル、時間にして一〇秒か二〇秒走って一時停止した際、春子を見ると、春子は尿をもらしており、顔は蒼白で、体は冷えていた。原告太郎は春子の異常に驚き、急いで自宅に帰り、自らは春子に人工呼吸を施しながら、原告花子に救急車を呼ばせた。その時春子の瞳孔は、右は完全に開き、左もほとんど開いていた。心音は聴取不能で、医師である原告太郎は、その時点で春子はほとんど死んでいると考えた。春子は、救急車で中野区野方一丁目四〇番一号所在の中野病院に運ばれ、九時六分同病院に到着したが、既に四肢冷、顔面蒼白、自発呼吸なく、瞳孔散大、心音聴取不能、心電図は平らで波形が見られなかった。酸素吸入、人工呼吸、心臓注射が試みられたが回復不能で九時一三分死亡が確認された。
三 原告らは、原告らが最後に春子を本件ベビールームに預けた間、すなわち昭和五三年七月三日朝から同月九日午前八時三〇分頃までの間に、春子の健康状態に異常が生じ、被告山住をはじめとする保母らは、それに気づいていたのであるから、その時点で医師である原告太郎に連絡するか、それができないときは、近くの医師の診療を受けさせていれば、春子の死亡は避けることができたはずであり、保母らの気づいていた春子の健康異常とは、具体的には春子の死因である熱射病の前駆症状若しくは小腸・大腸炎の症状である継続的な下痢であると主張するので、この点について検討する。
1 まず、春子の本件ベビールームでの最後の保育期間である昭和五三年七月三日から九日朝までの間に、春子にその死因となった熱射病の前駆症状である倦怠感、疲労、欠伸、朦朧、運動困難、顔面発赤、発熱、発汗停止、意識障害、急激な体温上昇等の重篤な症状が現われ、保母らはその異常に気付いていたとの主張について考えるに、鑑定人内藤道興の鑑定の結果及び証人内藤道興の証言(以下これらを「内藤鑑定」という。)中には、原告ら主張に副う部分がある。しかし、内藤鑑定のうち、春子の死因を熱射病とする判断は、本件ベビールームの環境は、おそらく劣悪であろうという単なる憶測を主要な根拠の一つとするもので、必ずしも確実な事実に基づくものとは認められず、右の期間中に春子に前記のような症状が発現したであろうとの点も推測にすぎないこと、ところで、本件ベビールームの建物の構造が別紙見取図のとおりで、保育室に大きな窓が二か所ずつ設けられていることは当事者間に争いがなく、《証拠省略》によれば昭和五三年七月当時本件ベビールームの一、二階東南角の保育室にはクーラーが設置されていたことが認められ、《証拠省略》によれば宿泊児数は七ないし一〇人位であったと認められることから考えると、本件ベビールームの環境が一般の住宅と比較して特に暑熱障害を招来し易い劣悪なものであったとは認められないこと、証人松岡美代子、被告山住美代子本人は、右期間中春子の健康状態に特段の異常は認められなかった旨供述していることに照らすと、内藤鑑定のみによって、原告ら主張の右事実を認めるに足らず、他にこれを認めるに足る証拠はない。
2 次に、春子の死因は小腸・大腸炎による脱水症であり、昭和五三年七月六日から春子は下痢をし、これを保母らは知っていたとの主張について考える。
原告太郎本人は、昭和五三年七月九日朝被告山住から春子を引き取った際に、同被告から春子が同月六日から下痢をしていると聞き、また九日の朝春子を引き取るまで大分待たされたが、それは春子が朝大量の便をして背中まで汚したので風呂に入れられたためであると説明を受けた旨供述する。しかし、被告山住本人は、この点について、春子は便秘をしていたので八日の午後二時頃浣腸をしたところ、同日一度排便があり、九日朝五時頃と八時頃にいつもより軟かめの便をしたことを松岡美代子から聞いたので、そのことを春子を渡したときに原告太郎に伝えたに過ぎない旨供述する。被告山住本人の右供述に照らすと、原告太郎本人の前記供述のみによっては、春子の下痢が三日以上も続いた重篤なものであった事実を認めるに足りない。また、《証拠省略》によれば、春子の遺体を解剖した東京都監察医河野林は、春子の直接死因を脱水症、その原因を小腸、大腸炎としていることが認められるが、鑑定人渡辺富雄の鑑定の結果及び証人渡辺富雄の証言によれば、渡辺富雄は河野林の右見解を誤りであるとし、春子の死因は、乳幼児急死症候群(略称「SIDS」)に基づく急性脳腫脹であるとしていること、内藤鑑定によれば、前記のとおり春子の死因は熱射病であるとされ、内藤道興も河野林の右見解に異論を述べていることから考えると、河野林の右見解を直ちに採用することはできず、したがって仮に春子に下痢が見られたとしても、それが前認定のような春子の急死との間に因果関係を有するものと断ずることもできない。
四 以上のとおりであるから、本件ベビールームの保母らが、春子の健康状態の異常に気づきながら、これを原告らに連絡し又は近隣の医師の診療を受けさせる等の措置を講ずることなく放置した過失により春子が死亡したとの原告ら主張は、前提を欠くというべきである。
よって、本訴請求はいずれも失当であるから棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 白石悦穂 裁判官 窪田正彦 倉田慎也)
<以下省略>